韓国で繊維機械の売込みに奔走(1968 - 1974年)

My Story

韓国で繊維機械の売込みに奔走(1968 - 1974年)

 

久しぶりに「輸出繊維機械課」に帰ると、主力市場はインド、パキスタンから韓国、台湾に変わっていた。

 

2歳で韓国の駐在員になり2年間ソウルに住んだ。先輩はみんな外人居住区のアパートに住んでいたが、一番若い駐在員だったので割当がなく、街中で下宿した。風呂はなく、洗面も外だった。トイレは水洗式だったが、水が出ることはなく、自分でバケツで水を流さなければならなかった。オンドル式の部屋は、横になると暖かいが、座っていると寒い。市販の石油ストーブは事故が多いというので恐れをなし、結局、一冬の間、部屋の中でも厚手のコートを着たままで過ごした。

 

しかし、この経験のおかげで、ソウルの普通の市民の人情に触れることが出来た。若い多感な時だったので、短い駐在期間だったにもかかわらず、韓国を第二の故郷と思うまでになった。その頃に習い覚えた片言の韓国語を、今でも極力使って忘れないようにしているし、古代から現代に至るまでの韓国の歴史も、時折熱心に勉強している。

 

ソウル時代はよく働いた。中小企業銀行枠の輸入ライセンスというものが発給されたので、このリストをいち早く入手し、煙突に書かれたハングル文字とリストの会社名をつき合わせながら田舎回りをした。こうして一足先に見込み客との関係を作ったので、メーカーの信頼を得ることが出来、結果として、この関係のビジネスでは、当時韓国に支店を持っていた十社以上の商社の中で、一社だけで80%近いシェアを取ることが出来た。

 

仕事は八割方日本語で出来たが、当時は日本人に対する反感も相当大きかったから、言葉遣いにはいつも気を使っていた。四人の課員と代理店の人達との人間関係にも気を使った。商社の仕事は、大型の金融取引を除けば所詮は「仲介」の仕事だったから、韓国のお客にも日本から来るメーカーの人にも気を使わなければならない。当時は宴会では酒を無理強いすることも多かったから、来韓した日本メーカーの偉い人が酒が駄目だと、自分でその人の分まで飲まねばならず、二日酔い、三日酔いはざらだった。

 

韓国から帰ってしばらくは東南アジアの仕事も担当した。この間に、インドネシアには2ヶ月ほど滞在した。

 

32歳で結婚、同時に東京に転勤となった。東京で仰せつかったのは、機械部門全般(自動車、船舶、航空機、エレクトロニクスを含む)を統括する副社長付というポジションで、またもや秘書的な仕事が多く、あまり気が進まなかったが、その頃は日本も「もう輸出にはあまり力をいれず、輸入を増やせ」という時代に変わっていたので、「二年間この仕事をやったらその後は欧米に駐在させて貰う」という条件を認めて貰った上で、おとなしく命令に服した。

 

その頃の伊藤忠は、後に臨調で活躍する元陸軍参謀の瀬島龍三副社長が、「分権組織の総合商社にも全社を横断する参謀本部的な組織があるべきだ」という考えを強く打ち出し、世に言う「瀬島機関」というものが脚光を浴びていた時代だったが、私が仕えた機械部門担当の野村福之助副社長は、スマートで瀬島さんに負けず劣らずの頭脳明晰な人ながらも、繊維部門の現場でたたき上げた人だったので、瀬島さんとはかなりの意見の相違があった。

 

山崎豊子の「不毛地帯」に描かれているような対立関係とは全く性格の異なったものではあったが、少しはそれに似た出来事もないではなかったので、総合商社特有の大型プロジェクトにまつわる機密事項の取扱いと相俟って、未だ若輩だった私の日常の仕事にも、若干の緊張感があったのは事実だ。

 

*REVOLVER dino network 投稿 | 編集