伊藤忠商事に就職 (1962 – 1968年)
大学を出たら就職するのが当たり前と思っていたし、当時は新卒側の売り手市場だったから、気楽な気持で友人達と一緒に会社回りをした。たまたま友人の先輩の勤めていた三井物産の屑鉄部に行った時に、その活気に満ちた雰囲気が気に入って、父に相談したら、「商社は賛成だが、伊藤忠か住商にしろ」と言われたので、結局伊藤忠(大阪本社)に入社することになった。
父は住友銀行に勤めていたが、松下幸之助さんがオランダのフィリップス社と合弁で松下電子工業を創った時に、財務担当の副社長に招かれて、後に社長になった。中学生の時に松下さんが家にこられたことがあり、その時に頭をなでてもらったのを今でも憶えている。天才的な経営者としての松下さんの逸話は、父からよく聞かせて貰った。生々しい話だったので印象が強く、「成る程」と思うことが多かった。
伊藤忠では、機械部門に入りたいと希望を出したら、「輸出繊維機械課」に配属された。インド、パキスタン、フィリピン、インドネシアなどに、賠償や円クレジットで豊田自動織機が作る紡績機械などを輸出する課で、1年目は経理の担当、2年目からはインドの担当になった。
一年間の経理担当は、後で考えると大変大きな勉強になった。毎月の決算で課長が数字のチェックに苦労しているのを見て、それまでの大福帳的なやり方を一新して、契約毎の採算管理が出来るような新しい帳票システムを考案した。
当時ポンドの切り下げがあり、ポンド建てでやっていたロシア向けの延払取引で厖大な損が発生したので、「もし今後ドルでそういうことが起こったらどうなるのか」と思うと心配になり、自分で工夫してエクセルのような表を作り、手作業でシミュレーションが出来る方法を考案した。当時はコンピューター等というものは影も形もなく、日常の仕事はソロバンか手回し計算機だったが、もしその時にコンピューターがあれば、そのままその世界にのめり込んでいたかもしれない。
隣の「輸入繊維機械課」は、ドイツやスイス、イタリアなどから機械を輸入する「格好のいい課」だったが、羨ましいとは思わなかった。当時は「輸出で外貨を稼がなければ日本は立ち行かない」という切羽詰った使命感があったので、泥臭い発展途上国向けの仕事に誇りを持っていた。先輩達の働き振りには目を見張ることが多く、「商売の駆け引き」といったことについても多くを学んだ。
入社3年目に、かつては「相場の神様」と謳われた小菅宇一郎会長が相談役に退いたのを機に、相談役付きの秘書になった。小菅さんは情に厚い人格者で、多くの薫陶を受けたが、秘書室の仕事は全く性に合わなかったので、「営業の最前線に帰りたい」と再三陳情した結果、2年半あまりで解放された。
尤も、秘書室で学んだことも多かった。大会社のトップ人事の決まり方とか、それを巡っての色々な人間模様が、手に取るように見えたからだ。人によって差はあるが、権力に擦り寄り、主流から外れないようにそれぞれに必死に工夫している様は、あまり美しいものには見えなかった。その為、私には、「大会社で高い地位につきたい」という願望を持つことが、生涯を通じて遂に一度もなかった。「他人に真似が出来ないぐらい働き、自分で納得の出来る実績を挙げる」ということだけが、常に私の心の拠り所となった。