「ベンチャービジネス」への興味 (1982年 - 1986年)

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「ベンチャービジネス」への興味 (1982年 - 1986年)

 

しかし、その頃、隣の「情報機器部」では、産業用のドットプリンターをビジネス用のプリンターに使うアイデアを自ら商品化し、当時急成長していたアップル社などにOEMで納める仕事が大成功を収めつつあり、破竹の勢いだった。つまり、隣の部は、それまでの「仲介業者」としての商社の枠組みから、既に脱却しつつあったのだ。

 

これを横目で見ていたので、自分も「通信」の世界で何とかそのような路線を歩みたいと考えた。色々と思いあぐねたが、NTTへの依存体質が強い日本の通信機メーカーの壁は厚い。結局、「米国やイスラエルのベンチャー企業と組み、彼等が開発したシステムを日本の家電メーカーに作って貰って、世界中で売るしかない」という結論に達した。(ベンチャービジネスは、米国ではこの頃から脚光を浴びつつあったが、当時の日本にはまだその萌芽は見られなかった。)

 

勿論、その間にも、一刻も休む暇なく、実に色々なことを手掛けた。韓国が初めて自動車電話(現在の携帯電話)サービスを始めると聞きつけると、単身アメリカの中西部に飛んで、当時モトローラと並んで唯一AMPS方式の自動車電話システムを開発・製造していたE・F・ジョンソン社を口説き、その足で、今度は韓国に飛んで、韓国の電電四社の一つであった東洋精密(OPC)に、何の紹介もなしに飛び込んだ。三星(サムスン)はNECと、金星(現在のLG)はモトローラと既に提携していたので、選択肢は限られていたのだ。

 

その後色々な経緯があったが、両社の間に立って一人で走り回り、最終的に、E・F・ジョンソン社の技術をOPC社にライセンスするプロジェクトを何とか纏め上げることが出来た。これが私と「携帯電話」との初めての出会いだった。(このビジネスでは、うまくいけばロイヤリティーの一部が末長く伊藤忠に入る目論見だったが、両社共その後業績不振に陥り、残念ながらこの努力は結局報われることはなかった。)

 

あれやこれやしているうちに、再びニューヨーク駐在を拝命した。今度は堂々たる「伊藤忠アメリカ会社 上級副社長兼エレクトロニクス部長」の肩書きだったが、カリフォルニアに最盛期で四百人程度を抱える独立法人を持っていた「情報機器部門」とは全く関係なく、「通信」と「民生電子機器」の分野で、一人で一から仕事を創らなければならない立場だった。(早くからアメリカで仕事をしていた家電部門は、既に米国展開に失敗して撤退した後だった。)

 

会社がこの時期に私をニューヨークに送り込んだ理由の一つには、「AT&Tが分割された」事もあった。分割によって生まれた七つの地域電話会社(RBOCS)は、それぞれに新しい仕事を手掛ける意欲を持っており、時あたかも「コンピューター技術を取り入れたビジネス用電話システム」がブームを迎える気配だったことから、自分でも、「ベンチャーと組めば、この分野で何か大きな仕事が創り出せるかもしれない」という期待を持っていた。

 

しかし、結論から言うなら、「電話システム」と「ベンチャー」は相性が悪かった。情報機器の売り込み先は各企業の情報システム部門であり、この部門の技術者には新しいものに興味を持つ人達が多かったが、電話システムの売り込み先は総務部門であり、彼等は新しい物を下手に取り入れて失敗することを恐れていた。RBOCS七社も、実際に仕事をするとなると動きが遅く、上層部は興味を示してくれても、実務部隊は思うように動いてはくれなかった。

 

あれやこれやで、三年に及ぶ悪戦苦闘にもかかわらず、投資したベンチャーの殆どは壊滅した。それだけならよかったが、ベンチャー投資に飽き足らず、自らベンチャービジネスとして立ち上げた社員数十五人程の百%出資会社(CICS社)も、存亡の危機に瀕していた。

 

*REVOLVER dino network 投稿 | 編集