「通信事業部長」の仕事 (1989 - 1994年)
しかし、ちょうどその頃の伊藤忠は、これまでの商社の枠を破って「自ら通信事業を営む」方向へと大きく舵を切っていたところだったから、人材が払底していたのだろう。「最低評価」を背負っての帰任だったにもかかわらず、帰国の翌年には、「国際通信事業室長」として、トヨタ自動車や英国のケーブル・アンド・ワイヤレスとの合弁であるIDC社の運営の本社側の責任者となり、その翌年には、伊藤忠の看板事業であった衛星通信事業などを統括する「通信事業部長」となった。
その間に、部下の一人が熱心に進めていた「NTTドコモの携帯端末の販売店の展開」にも関与した。ちょうど「携帯電話機の売切り制」が始まったところで、業界の盟主たるドコモといえども、まだ全てが手探り状態だったので、商社からのアプローチにはそれなりの魅力があったのだろう。この仕事では私自身の貢献は殆どなかったが、「携帯端末の販売事業」は伊藤忠が他商社に先駆けたものであり、その後長年にわたって、この仕事は部門の最大の稼ぎ頭となった。
この件だけに限らず、この頃の商社は全てに貪欲で、世間も商社に期待していたから、多種多様な案件が国の内外から頻繁に持ち込まれ、その評価に毎日が目の回るような忙しさだった。少なくとも、一年に二つか三つの新規事業にGOサインを出したが、10件近くは却下した。米国駐在中に散々苦労した甲斐があって、「事業性の確認」には極めて厳しく対処するようになっており、例えば、イリジウムのような低軌道衛星事業等については、各社が次々に参入するのを横目に、「事業性がない」と確信して不参加の方針を貫いた。
しかし、私自身は、決して大企業的なバランス感覚に回帰したわけではなかった。CSKの大川功さんから声をかけてもらった「パンナムサット(コムサットに対抗する純民間企業)」は、「必ず成功する」と踏んで、本気で資本参加の可能性を追求した。しかし、この頃になると、さすがの伊藤忠も「衛星関連事業にこれ以上突っ込むのは危険」と判断するに至っていたので、力不足で上層部を説得出来なかった私は、結局この件を途中で断念せざるを得なかった。
もしこれをやっていれば、当時の伊藤忠全社の丸一年間の経常利益に相当するようなキャピタルゲインが得られていた筈だったので、この事だけは今考えても残念だ。それ以上に、本能的にこの仕事の可能性を嗅ぎ取り、最後まで執念を燃やしていた大川さんの期待を裏切ってしまったのは心苦しかった。
小さな仕事も色々手がけた。これも途中で投げ出してしまったが、日本初の「通信回線を使った野球ゲーム(実際のデータと連動したチームを率いて『監督の腕』を競い合うゲーム)」の開発では、業界誌から賞をもらったこともある。
これは私とは関係のないところで決まったことだったが、その頃、伊藤忠は、東芝と共に、米国のタイムワーナーに5億ドルの大型投資を行い、この流れで、日本でのケーブルTV事業の立ち上げも共同で行っていた。(この関係で、私は一時期タイムワーナーのExecutive Boardのメンバーだったこともある。)ケーブルTV事業はタイムワーナー社の目玉事業だったから、私もそれなりに全力を上げて取り組んだが、一方で、日本でのケーブルTV事業の推進は、後述する直接衛星放送事業とかぶるところもあったので、その扱いにはそれなりの苦労があった。
また、ケーブルTV事業の真の価値は、後に言われる「トリプルプレイ」にあると、その頃から私自身は確信していたので、少し方向性の違う「フルサービス・ネットワーク」というものに注力していたタイムワーナー社とは、戦略的な考え方が異なっていた。また、これは結局は杞憂に終わったのだが、「NTTが将来多くの家庭の電話線を光ケーブルに張り替えたら、ケーブルTV会社はとても対抗出来ない」と考えていた私は、どうしてもケーブルTV事業にのめり込む気持ちにはなれなかったのも事実だった。
だから、表面的には友好的に仕事を進めながらも、「こういった考え方の違いが、将来何か大きな問題を引き起こすのではないか」という不安が、私の心の中には常に付きまとっていた。そして、現実に、この事は私が考えていた以上に大きな問題を私にもたらしたようだった。「基本的な考え方の違い」はどうしても日常の言動に出る。タイムワーナーの側としては、実は私以上にこの不安を感じていた様で、「このプロジェクトの責任者を松本から誰か他の人間に変えて欲しい」と、密かに伊藤忠の上層部の方に働きかけていた事を、私は後で知った。やむを得ない事だった。