通信衛星会社の合併と衛星放送会社の設立 (1994 - 1995年)

My Story

通信衛星会社の合併と衛星放送会社の設立 (1994 - 1995年)

 

この様に、この時代には、私の周辺では実に色々な事が同時並行的に起こっていたが、この時代に私が成し遂げた最大の仕事は何だったかと言えば、やはり「通信衛星会社の合併による四商社の大同団結」と、それに連動した「直接衛星放送会社(現在のスカパー)の設立」だったと思う。これだけは、「自分がその時期に伊藤忠にいなかったら、恐らく実現出来なかったのではないか」と、今でも密かに自負している。

 

当時、伊藤忠は、三井物産と米国のヒューズ社との合弁による通信衛星会社「JSAT」の筆頭株主であり、「JSAT」は三菱商事系の会社と日夜激しく競合していたが、ここに日商岩井(現在の双日)と住商が、第三の衛星会社「SAJAC」を設立して参入しようとしていることが分かった。実際に仕事をしていれば、衛星通信にはそんなに使い道があるわけではなく、市場は既に飽和状態にあるのが分かるのだが、「他人の花は赤い」らしく、日商岩井や住商は、私から見ると「非現実的な夢」を持っているように思えた。

 

これを分かってもらう為には門外不出の市場情報を出すしかないのだが、まさかそれは出来ない。この為に、先ずは、日商岩井に対して楽観的な調査報告を出していた三和銀行系の調査会社を説得することからはじめる必要があった。話を分かりやすくするために、私は「業界全体の損益計算書」まで作った。

 

当時の伊藤忠の米倉社長は、衛星会社の合併方針は承諾してくれたが、「伊藤忠が頭一つ上に出ること」だけは絶対条件として譲らない。その為には、20%以上の株式保有に拘る米国のヒューズ社にどうしても退出してもらう必要があり、これは極めて困難な交渉となった。米国の会社は交渉がしたたかだが、彼等の条件を飲んでしまえば日商岩井や住商が収まらない。

 

しかし、合弁契約書をしらみつぶしに読んでいると意外な穴が見つかったので、これを盾に、普通の日本人はやらないような厳しい交渉をして、何とか目的を果たした。こんな交渉のやり方は、「目的の達成」よりも「友好関係」を重視する上司に相談すれば止められることは分かりきっていたから、全ては私の独断でやった。水面下でこの様な苦労があった事は、殆ど知る人もないだろう。

 

衛星会社の合併交渉と並行して進めたのが、四商社合弁の直接衛星放送会社(現在のスカパー)の設立だった。

 

その頃の伊藤忠は、音楽とスポーツの分野で、アナログ方式の通信衛星を利用する二社の番組供給会社に投資していたが、視聴者が少なく、毎月一億円以上の赤字を垂れ流していた。これを何とかしなければならない。NHKが視聴料をとっている上に、地上波放送が充実している日本では、余程のパラダイムシフトがない限り「有料多チャンネル」の魅力は訴えられないと私は考え、このパラダイムシフトを自ら創り出すしかないと決意した。

 

具体的に考えたことは、五十から百チャンネルの規模のデジタル方式のプラットフォームを新たに創り出すことだった。今でこそ、「プラットフォーム」という言葉が普通に使われているし、「受託放送会社」というものも制度として定着しているが、当時としては極めて斬新な発想だった。

 

共通のプラットフォームの上に、各社が既にやっている番組供給会社を乗せ、更に幅広く新規参入者を求めた上で徹底的な宣伝をすれば、既存各社を黒字転換させると共に、システム全体を採算に乗せることも出来ると私は考えた。番組供給事業ではケーブルTV事業に注力していた住商がかなり先行していたから、衛星会社の合併がなければこの様な構想はもともと成立し得なかっただろうが、幸いにして四商社の大同団結が曲がりなりにも成立していた為に、この構想を一気に実現させることが出来た。

 

アメリカには、同様の構想を持った会社として、既にヒューズ社が経営するディレクトTV(後に三菱商事と提携して日本に進出)が存在していたが、ライセンス料が高いので魅力は感じられず、「先手を取れば独自方式で勝てる」と踏んだ。(米国の技術に頼らずとも、ソニーなどには十分その力があると考えていた。)早い時点で、私一人で一気に企画書を書き上げて、郵政省(当時)や業界の有力者の支援を取り付け、それから他の三商社に話を持ち込んで、数ヵ月後に企画会社の設立に漕ぎつけた。この辺の事情を知っている人はもう今は殆どいないだろう。

*REVOLVER dino network 投稿 | 編集