経過措置としての「ジャパン・リンク」の設立 (1996 - 1998年)
当時は私のような立場でそういうことをする人は殆どいなかったので、世間の人達は随分驚いたようだったが、とにかく私は伊藤忠を辞めた。
「ちゃんと食っていけるだろうか」という不安は勿論断ち切れなかったが、家族には「生涯所得を倍増する」と強がりを言って、とりあえず「(株)ジャパン・リンク」というコンサルタント会社を創った。
見栄を張って資本金1,000万円の株式会社にしたが、従業員はゼロで、ニューオータニホテルの隣にセクレタリープールを使えるオフィスを借りた。ネットで見つけたアウトレットで安い中古のビジネス家具を買い、子供達に手伝ってもらって小さなオフィスに運び込んだ。取りあえずは、これまでの人脈を使ってコンサルタント業を二年間やり、この間に新しい事業を創り出す準備をしようという計画だった。
コンサルタントの顧客としては、「同じ分野ではかぶらないこと」を原則とし、固定通信では「米国のスプリントとドイツテレコム、フランステレコムの合弁会社であるグローバル・ワン」、放送関係では「CBS(米国三大ネットワークの一つ)を買収したウェスティングハウス」、移動体通信では「CDMAという新技術を開発したクアルコム」、エレクトロニクスメーカーでは「日本メーカーの中では一番動きが早そうなシャープ」、それに、伊藤忠時代の上司が社長になっていた「ファミリーマート」、伊藤忠のお情けで付きあってくれた「伊藤忠テクノサイエンス」、色々な切り口で個人的にも関係が深かった「衛星通信会社のJSAT」といったところに固定客になって貰い、後は個人的な関係を頼っての個別案件の受注だった。
某地上波放送局から、極秘で「BSデジタル放送サービスのあり方について」のアドバイスを求められ、提言書を出したこともある。(「広告放送と有料放送を組み合わせる」「有料放送部分については民放五社が連携して時間的にかぶらない番組構成にする」等のユニークな提言をしたが、結局相手にはされなかったようだ。)
「60GHzのポイント・トゥ・ポイントの無線を、東京都が下水道管の中に敷設する光ケーブルと組み合わせて、東京全域に自己増殖型の超高速通信網を構築する」という、ややドンキホーテ的な構想を色々なところに売り込んだこともある。
グローバル・ワンの仕事は押しかけのようなものだったが、私としてはかなりの思い入れがあった。その頃、スプリントと競合していたMCIが英国のBTと組んで野心的なプロジェクトを進めようとしており、日本政府もその様な動きに神経を尖らせていたので、「NTTが国際的なIP通信網でグローバル・ワンと組む」という姿が描けないかと思い、「それまでの『ベストエフォートのIP網』ではなく、『コントロールされたIP網(現在のNGNのようなもの)』の共同研究を、グローバル・ワンの側からNTTに申し入れる」ことを、密かに画策しようと思っていた。(しかし、この様な構想は、スプリント社内の一部の人には興味を持って貰えたものの、あまりに時期が早すぎたので、具体化に至るには遠く及ばなかった。)
その頃は、「通信」と「放送」と「インターネット」を一体と考える「マルチメディア」という言葉が脚光を浴びていた時だったので、この全てにほぼ均等に関与してきた自分のような存在は貴重だと自負し、当初はこの全ての分野に顧客層を広げたことに密かに誇りを感じていたが、この全てを常によく勉強をしておくことは、実際には不可能に近いことがやがて分かってきた。ウェスティングハウスのマイケル・ジョーダン会長とクアルコムのアーウィン・ジェイコブス会長の訪日時期が重なりかけて、ハラハラした事もある。
そのうちにCDMAの日本導入の可能性が高まり、クアルコムの仕事が多くなってきた上に、クアルコムの半導体部門が日本にオフィスを作る構想を固めつつあったので、思い切って、当初の「ベンチャー企業設立」の構想を捨て、クアルコムに入社することに決めた。知れば知る程クアルコムの技術陣は優秀であり、彼等が開発したCDMA技術の潜在力は、想像を絶するほどに大きいものであることが分かってきたからだ。