「クアルコム・ジャパン」の設立 (1998 - 1999年)

My Story

「クアルコム・ジャパン」の設立 (1998 - 1999年)

 

CDMAの日本導入は、モトローラのボブ・ガルビンと京セラ(DDI)の稲盛会長が意気投合して進めてきていたものだったから、クアルコムの貢献はさして大きくはない。それでも、最後の土壇場ではかなり重要な貢献をしたと思う。途中まではコンサルタントの立場での仕事だったが、最終段階では新設のクアルコム・ジャパン株式会社の社長として関与した。

 

この会社の社長は、本社側では当初は典型的なアメリカ人のエクスパトリオットを考えていたが、コンサルタントの立場から「日本人にした方が良い」と主張し、その上で自分自身を推薦した。やるからには、外資系の会社によくあるような「本社の使い走り」のような仕事はしたくなかったから、それなりの格を作る為に、「トップ直結の組織にすること」を絶対条件にし、自分の給料についても、敢えて高い水準を要求した。

 

(因みに、ここで頑張った事は後々大いに役に立った。通常の外資系企業では、本社の各部門がそれぞれ海外店に自分の部下を持ち、彼等は本社の顔色ばかりを見てそれぞれがバラバラに動くのが普通だ。この為、各部門が連携して戦略的に動くことが出来ず、客先からも「方針が一貫しない」と苦情が出ることがある。しかし、私はトップに直結していた為、各部門の長といえども、日本人の部下を勝手気儘に顎で使うことは許さなかった。英語でのコミュニケーションが下手な為に誤解を受けて、危うくクビになりそうだった日本人社員を何度か救うことも出来た。)

 

クアルコムに関連して一つ私の大きな誇りとなったことは、それまで海外展開のあり方については全く無知だったクアルコムが、「海外店のトップはその国の人間にする」という原則を作り、現実に例外なくそれを実行してきたことだ。これは、日本での成功を、韓国へ、中国へ、更にインドや東南アジア諸国へと広げていったからであり、その節目々々で、私はそれなりの役割を果たしたと自負している。(尤も、この体制は現時点では大幅に変更されている。)

 

CDMAの事業化は、米国よりも一足先に香港で始まり、韓国が「国を挙げての統一標準」としてこの技術を採用したことによって勢いがついたが、日本での事業化は、一九九八年に京セラ系のDDIが関西地区で始めたのを嚆矢とする。開業日にバッテリーが瞬く間に上がってしまうという大問題が発生し、関係者全員真っ青になったが、原因はすぐに分かり、クアルコムの技術者が一週間不眠不休で解決に取り組んで、何とか事なきを得た。半年後にトヨタ自動車系のIDOが関東、東海地区でも営業を開始し、やがて全国網が完成、次第に存在感を示すに至った。

 

しかし、データ通信がそれ程重要でなかった当時としては、CDMAのメリットは、「周波数の利用効率の良さ」だけだったから、さして周波数が逼迫していたわけではなく、多額の金を払って競り落とす必要もない日本では、当然のことながら大いに苦戦した。「音質が良い」という若干のセールポイントはあるものの、その程度のメリットだけでは、「コスト高」という致命的なデメリットを吸収出来るには程遠い。クアルコムは「ロイヤリティーが高い」「チップの値段が高い」と責めたてられ、毎日「針のムシロ」に座わらされているような感じだった。

 

しかし、もしDDIやIDOが、この時、直接の競争相手であるドコモが開発したPDCにとどまっていたら、常に「新しい機能を入れた端末はドコモからしか出ない」状態が続き、日本の携帯通信サービスは「見せかけだけの競争」にとどまってしまっていただろう。DDI やIDOのこの時の決断と、それに続く長年の忍耐は、日本の携帯電話業界に「真の競争」を持ち込む礎を築いたと、私は今でも考えている。

 

携帯通信のデジタル化(第二世代)の動きを世界的に俯瞰してみると、欧州全域を一つのシステムで一気に統一したGSMが、次第に圧倒的な強さを示めすに至った経過がよく見て取れる。

 

ノキア、モトローラ、エリクソンの三大メーカーが量産効果を生かして安くてスマートな端末を供給し、殆ど全世界でローミングが可能なGSMは、アジア、アフリカを席捲、米国の裏庭である中南米でも次第に優位に立った。アメリカでは、CDMA、北米標準のTDMA、それに米国政府自身が欧州から招きいれたGSMの三つの技術の鼎立となっていたが、そのうちにTDMAが没落した。技術的にはGSMより優位だったCDMAも、北米でこそ市場の半分程度を押さえたが、韓国と日本を除くアジアと中南米ではGSMに勝てなかった。日本固有のPDCは、日本の外では一勝もあげられなかった。

*REVOLVER dino network 投稿 | 編集