第三世代携帯通信(3G)事業を巡る角逐 (1999 - 2000年)

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第三世代携帯通信(3G)事業を巡る角逐 (1999 - 2000年)

 

そのうちに2GHz帯を世界の統一周波数とする「第三世代モバイル通信システム(3G)の導入」が世界の通信事業者の関心を引き始めた。

 

ドコモは、「クアルコムが開発したCDMAは狭帯域だが、これをより広帯域で使うWCCDMA方式の技術開発については、自分達が世界で最も進んでいる」と公言して、このシステムの世界標準化の先頭に立った。これに呼応したのが北欧勢のエリクソンとノキアであり、異なった方式を推すアルカテル(仏)とシーメンス(独)の連合軍と戦った。この戦いは有利に進んだが、ここで、思いがけず、CDMA技術の基本特許を持つクアルコムの頑強な抵抗に会う。

 

クアルコム側は、「音声とデータを広帯域の中で同居させるWCDMA(R99)方式には殆どメリットがなく、それはそれでよいとしても、取るに足らぬIPRを無理やりに導入してCDMAの基本特許の価値を薄めるやり方は不公正だ。世界中の巨大通信事業者と巨大メーカーが結託して小さなクアルコムを圧殺しようとするなら、あくまで戦う」という立場を貫いた。実際に「公正な条件が認められないなら、誰にもCDMAの基本特許の使用を認めない。その為にCDMAが世界標準にならないのなら、それでも良い」という爆弾宣言をして、世界中を驚かせた。

 

私は、サンディエゴの本社でこの方針が決定された現場に居合わせ、意見を求められたので、積極的な賛成論を開陳した。「ドコモは旧方式に回帰しないか?」と聞かれたので、「ドコモは技術的信念を曲げない会社故、それはあり得ない」と明言した。

 

この爆弾宣言は直ちに世界中に伝えられたが、日本では、私自身がドコモの立川社長や郵政省(当時)の稲田移動通信課長に伝えた。当然のことながら、関係者は全員が極めて不機嫌になり、私としては、決して楽しい経験ではなかった。その後、ドコモ(森永副社長ー故人)とクアルコム(ジェイコブス会長)は密かにパリで会見し、平和的な解決について合意したが、私は勿論それにも同席した。

 

クアルコムのこの強気の姿勢には、当然それなりの理由があった。クアルコムは「バースト型のデータ通信は電話とは全く性格の異なるものであり、それ故に、無線通信の方式も全く異なるものであるべきだ」という基本的な考えを持っており、既にデータ通信に特化した新しい方式を開発しつつあった。この方式は当初はHDRと呼ばれていたが、これが後のEVDOとHSPA(WCDMA方式の拡大版)の原型である。

 

このように、クアルコムは「携帯電話の将来像は携帯インターネットであり、その為にはHDR方式の早期導入が必要。方式を抜本的に変えないままに周波数帯域のみを広げて凌ごうとしているWCDMA方式は回り道である」と考えていたので、盟友である筈のKDDIが、第三世代に移行するに当たってHDR路線をとらずにWCDMA方式を選ぼうとしている事態に直面した時には、これに強く反発した。ジェイコブス会長も自ら稲盛会長を説得しようとしたが、うまくいかなかった。

 

クアルコム本社が極度に苛立っているのを感じた私は、遂に「伝家の宝刀」を抜くことを決意した。「KDDIが路線を変更してくれないのなら、クアルコム自身が日本で通信事業者となるべく、ライセンス取得競争に参入する」と宣言、その為に「ワープ・コミュニケーション」という企画会社を作った。その背景には、当然のことながら、米国の某大手通信事業者が日本進出に多大の興味を持っていたという「裏の事情」もあった。

 

この突然の宣言に、「三つの周波数枠を既存事業者三社に与える」という方針を既に内々で決めていた郵政省(当時)は仰天した。「まさかそんなことは出来ないだろう」とも思ってはいただろうが、私は、強い信念を吐露した「趣意書」を先行して郵政省(当時)に提出し、その中で「事業化の手順」までをきちんと示すことを怠らなかったし、米国大使館やUSTRの支援も得ていたので、あまり馬鹿にも出来なかったと思う。しかし、郵政省以上に事態を憂慮したのは、合併してKDDIを創ることに既に合意済みだったDDIとIDOだっただろう。

 

私は、生涯を通じて常に労を惜しまずよく働いたと思うが、一番集中して働いたのは、やはりこの時だったと思う。賽を投げてしまったのでもう後には戻れない。腰砕けになったら天下の笑い物になる。しかし、逆に免許が取れてしまったら、人集めから金集め、「データで勝負する新しいビジネスモデルの確立」まで、全てを一から始めなければならず、心身ともボロボロになるまで働き続けなければならなくなるだろう。

 

本心ではKDDIに翻意して欲しかったし、このことを公然と明言もしていた。その為に、私の行動を「所詮はブラフなのだろう」と思っていた人も結構いたようだったが、まさかそんな甘い考えでこんな大勝負は出来るものではない。私は、最後まで「和戦両様」の構えで事に当たっていた。

 

時間も切迫していた。わずか五人のチームで、日常の仕事をこなしながら、厚さ五センチ以上もある申請書類を一ヶ月足らずで作り上げたが、その間は、疲労と心労で毎日腹具合がおかしかった。米国の某通信事業者とは、投資の条件とその手順を含め、特に緊密な連絡を取る必要があったが、アメリカに行っている時間はなかったので、本社の支援を受けながら、殆どのことを電話会議でこなした。「午前一時頃まで書類作りをして、それから近くのホテルに泊まり、明け方の四時に目覚まし時計で起きて電話会議に臨む」というようなこともしばしばだった。

 

結果的には、稲盛さんが土壇場で方針を転換してくれたので、「ワープ・コミュニケーション」が事業会社として日の目を見ることはなかった。KDDIの最終方針はサンディエゴでのトップ会談で固まったが、その時点で、稲盛さんは、「ドコモの強力な技術陣に対抗する為に、クアルコムをKDDIの研究開発部門と考え、両者が緊密に連携する」ことをクアルコム側に提唱し、その場で合意がなされた。

*REVOLVER dino network 投稿 | 編集