「クアルコム・ジャパン」の仕事 (2000 - 2005年)

My Story

 「クアルコム・ジャパン」の仕事 (2000 - 2005年)

 

これで私は大きな重荷から解放され、普通の日常に戻ることが出来た。この頃になると、「クアルコム ジャパン」の社員数も順調に増え、会社としての体裁も整いつつあった。

 

その頃には、アナリスト達の主催する講演会などにも招かれることが多くなったが、そういう場では、私はいつも、「やがて携帯通信事業者のデータ収入は音声収入を凌駕する。それ故、データ通信に向いた新技術を一足先に使える立場になったKDDIが、近い将来ドコモを抜く可能性がある」と語った。「3Gライセンス取得宣言」で世の中を騒がせた直後だったので、「大ボラとしても面白い」と思ってくれた人は、結構多かったと思う。

 

(今になって、「KDDIがその時点で世界の大勢となりつつあったWCDMA路線をとらなかったのは失敗だったのではないか」と言う人がいるが、私はそうは思わない。「何れは全てのシステムが統合されていく」事は分かっていたし、それまでの間は、端末開発のスケールメリットに多少の差があっても「デュアルモードのチップ」で吸収出来る。しかし、時間は金では買えないから、この時点ではHDR(EVDO)で「データ通信での優位性」を誇示し、ドコモとの差別化を計る方が明らかに得策だったと、私は今でも考えている。)

 

広報活動のことについて触れたからには、もう一つ言っておかなければならないことがある。その頃の私は、CDMAのライセンス料を巡る日本の業界の反発に対しても、臆することなく立ち向かった。業界の不満はクアルコムのロイヤリティーが高すぎるということだったが、私は「さしたる根拠もなく高いと決め付けるのはおかしい。高いか安いかは需要と供給のバランスが決めるものだ。求められるものにはその価値があるのだ」と主張した。本社から出張してきた経営幹部は、この話になるとみんな逃げたが、私には「革新的な技術が生み出す価値」についての確固たる信念があったから、決して逃げることはなかった。

 

(私が退社してからずっと後になって、日本の公正取引委員会が「日本メーカーが不利な条件を受けることを『余儀なくされる』状況をつくった」としてクアルコムに排除命令を出したことを知り、私は心底驚いた。契約というものは当事者の自由意志によって為されるものであり、何者も契約を「強制」することは出来ない。「余儀なくされる」という日本語を英語に翻訳しても、全く意味をなさず、クアルコムは当惑して異議申し立てをしたと聞いている。この様なケースは世界でも例のない不思議なケースだったが、結局はパナソニックが提訴を取り下げて決着したと聞いている。)

 

ついでながら、かつての論戦の中では、私は公然とこう言っていた。「クアルコムはたまたま成功したが、その陰には、クアルコムの様に独創的な技術を追求して孤独な戦いを続け、遂に報われることもなく破綻していった多くのベンチャー企業がある。我々は、夢破れて散っていったこれらの人達の為にも、人々の羨むような大きな利益を上げなければならない。」

 

そしてまた、別の機会に、私はこうも言った。「日本の将来を担う若者達の為にも、我々は高額のロイヤリティーを取り続けなければならない。日本の若者達は、これを横目で見ながら、悔しさに耐え、『何時の日かは、自分があのようになる』と、闘志を燃え上がらせて欲しい。リスクを恐れ、人の後追いばかりしていては、結局報われることはない事を知ってほしい。」

 

クアルコム・ジャパンの仕事をしていて、嬉しいことも幾つかあった。

 

ある米国の機器メーカーが、本社のトップに対して、「クアルコムは日本法人の社長に幾ら払っているか知らないが、例え幾ら払っていたとしても。元は十分取れている」と言ってくれたこと。来日したチャイナユニコム会長の王建宙さん(その後チャイナモバイルの会長に転出)が、帰国後わざわざ本社のアーウィン・ジェイコブス会長に電話をして、「クアルコム・ジャパンのような会社を、中国にも是非作って欲しい」と言ってくれたこと等だ。

 

もう一つ嬉しかったのは、ベンチャー投資のささやかな成功だった。クアルコム・ジャパンは日本のスタートアップ企業を対象に30億円のベンチャー投資ファンドを運用する事を任されていたが、2年あまりの運用でその半分弱を使い、IPOにこぎつけた会社が4社、破綻したのは僅か1社で、これは本社を驚かす成果だった。若い時にベンチャー投資で全敗した苦い経験を持つ私としては、ささやかな成功であっても嬉しかった。

 

クアルコム・ジャパンの主たる仕事は、クアルコムのチップセットを買ってくれている日本メーカーを支援して、二つの目的を達成することだった。一つはKDDIの日本市場でのシェアを伸ばすのに貢献すること、もう一つは日本メーカーの海外市場での販売を増やすことだ。直接最終ユーザーに商品を売る立場ではないのだから、これが実現しない限りは、クアルコム・ジャパンの商売は増えない。

 

前者の鍵は、HDR(EVDO)を早急に導入して、データサービスのフラットレート化を実現することだったが、当時2兆円の有利子負債を背負っていたKDDIはなかなかその決断をしてくれなかった。HDRのインフラベンダーとしては、当時はサムスンと日立しかなかったので、日本ではまだ信頼が得られていなかった「サムスン」の売り込みに力を入れたのは勿論、「KDDIの大株主である京セラと日立との提携」も画策し、KDDIが一日も早く決断してくれるように、あらゆる努力を尽くした。

 

KDDIが「アイモード」で先行していたドコモとのデータサービスの競争で勝利する為のもう一つの鍵は、ゲームなどのネイティブ・アプリを携帯端末上で高速で動かす仕組みである「BREW」の推進だった。

 

当時のクアルコムには、「BREWを拡充してリナックスのカーネル上で動くミドルウェアとし、先々は全体をリナックス OS化する」という構想もあったが、後にクアルコムは「多数のOSベンダーのそれぞれと緊密な友好関係を構築し、チップの拡販に注力する」という路線に進んだので、この構想は放棄された。これはクアルコムとしては正しい選択だったが、時計の針を少し元に戻して、もし早い段階でクアルコムが、先ずBREWを完全にオープンにして無償化し、その上で、各通信事業者が自由に格安で利用出来る「アプリケーション・ストア」を運営していたとしたら、世の中は相当変わったものになっていたような気もする。

 

また、当時のクアルコムは、未だに「GSM対CDMA」という対立の構図の中にいたが、早々とこの対立を解消し、BREWをGSM(GPRS)の上で動かしていたら、世の中はどうなっていただろうか?

*REVOLVER dino network 投稿 | 編集