クアルコム本社の上級副社長(Senior VP)に就任 (2005 - 2006年)
ちょうどその頃、クアルコム本社で私はシニアVPに昇格、日本と併せて東南アジア・大洋州を統括することになったので、これを機に、日本法人の社長を私より17歳若いパナソニック出身の技術者である山田純さんに譲り、私は会長になった。日本オフィスでは私は小さな部屋に移り、その代わりサンディエゴと香港にオフィスを持って、週末の殆どは国境を越えた移動に使う生活になった。
当初、私は、この新しい立場で、少しは日本の端末メーカーの海外市場開拓を助けられるのではないかと期待したのだったが、結局これは期待外れに終わった。
当時の日本メーカーは、世界市場で今よりはもう少し元気だった。三洋はアメリカのスプリント向けOEMでサムスンとほぼ互角に戦っていたし、クアルコムの端末機部門を買収した京セラも、サンディエゴを拠点とする世界市場向けのオペレーションの拡大をまだ諦めてはいなかった。「写メール」で世界に名を馳せたシャープには、欧州市場での販売拡大が期待されていたし、NECもクアルコムとのそれまでの確執を解消して、中国市場で攻勢に出ようとしていた。
クアルコム本社での会議では、日本を代表する私は、先進的なアプリケーションの分野では出席者の興味を惹くような面白い話をする事が出来たが、チップ販売の実績となると韓国法人と比べて見る影もなく、いつも悲哀をかこっていた。だから、日本メーカーに頑張ってもらって、何とかこの事態を打開したかった。
しかし、GSMが圧倒的に強く、CDMAは値段を安くしなければ売れない「東南アジア市場の現実」を見せつけられた私は、「これは一筋縄ではいかない。端末機もアプリも、コストの感覚を根本的に変えなければならず、しかも、長期戦を覚悟して忍耐強く取り組まなければ、突破口は開けない」と感じた。そして、それ以来、日本の端末メーカーに対する過度の期待は捨てた。
一方では、昔懐かしい東南アジアにしばしば足を運んでいると、私には商社時代の感覚が戻ってきて、色々なアイデアも浮かぶようになってきた。トップから頼まれたMediaFLO(クアルコムが開発した携帯端末向けの放送システム)関連の仕事以外では、日本のことは次第に私の関心外になっていった。
(MediaFLOについては、「地上波サイマルキャストの無料ワンセグに、ロングテールを狙う有料のクリップキャストを組み合わせれば面白い」と考え、ワンセグとのワンチップソリューションも用意したが、当初考えた「2年内の周波数取得」が不可能と分かり、断念した。先行したアメリカ市場は、私の考えでは、先ず無料サービスでユーザーの認知を高め、それから徐々に魅力のある番組を選んで、Pay-per-viewでビジネスモデルを作っていくべきだったと思うのだが、マーケティングを任せた通信キャリアーが始めから高い値付けをしたので、結局ユーザーにそっぽを向かれる羽目になった。これは、ノキアが力を入れていて欧州規格のDVBHでも同じことだった。)
本業となった「東南アジアでの安価なデータアプリの流通」を考えるにあたっては、私は取り敢えずインド人の技術屋と組んで、「広告と連動した音楽アプリの流通システム」を作り、「全ての発展途上国での同時多発的マーケティング」を画策した。この為、私は社内の組織の壁を破って、担当外のインドや中南米にも足を伸ばした。担当の東南アジアだけでは、何をするにしても市場が小さすぎたからだ。当初はハードに拘ったが、そのうちにハードは何でもよいと割り切れるようになった。
(クアルコムを退社した後で聞いた話では、私達が開発したこのシステムは、インド、中国、メキシコではある程度売れたらしいが、もともとの目標だった東南アジア市場とブラジルは駄目だった由である。)
しかし、私の最終目標は、この程度のものではなく、「第三世代の携帯電話機を徹底的に低価格化して、発展途上国全域に行き渡らせ、最貧国にまでインターネット環境をつくり、世界規模でのデジタルデバイドを完全に解消する」という構想だった。
そうなると、もう日本にいる必要もない。ここで、私は、「サンディエゴに生活の拠点を移し、3-4年間そういう仕事に注力した上で、70歳で引退する」という生涯計画を定めて、日本の関係者にもそういう挨拶をして回った。