孫正義さんとの出会い (2005 - 2006年)

My Story

孫正義さんとの出会い (2005 - 2006年)

 

ちょうどその頃に、孫さんからまた連絡があった。「また」ということは、以前にも色々な話があったということだ。孫さんとは以前から面識がなかったわけではなかったが、具体的に声がかかるようになったのは、彼が「どうしてもモバイルをやりたい」と考え始めた頃のことだから、2004年頃だったと思う。

 

私は、「孫さんは何れにせよモバイル通信に何らかの形で入っていくに違いない」と思っていたので、「そうなるとクアルコムにとっては見込み客先になるから、丁寧に対応しなければならない」とは考えていたが、その時点では、まさか自分自身がソフトバンクに入社することになるとは夢にも考えていなかった。

 

しかし、孫さんの人柄にはすぐに魅せられた。志やアイデアは夢中になって語るが、全て本気であり、回りくどいことは一切言わない。目一杯の「大風呂敷」は広げるが、偉そうぶるところは全くない。(私は、偉そうぶる人が嫌いだったから、この点が特に心に響いた。)彼と直接の接点を持ったことのない人達の中には、彼の「変わり身の早さ」を嫌って、「信用出来ない」と評する人も多いが、実際に身近で接してみると、基本的には率直で誠実な人であることが分かる。

 

私の方では、「将来の見込み客」だと思うからこそ、呼ばれれば出向いて、色々と意見具申などをしていたわけだが、彼の方では始めから全く社員と同じような扱いで、何の分け隔てもない。とにかく、何事につけ「目標と定めたことをやり遂げる」事だけが彼の唯一の関心事であり、その他の事には殆ど気は使わない。

 

そのうちに、或る時、「この人は本当に大きなことが出来る人かもしれない」と私は思うようになった。それは、私が彼の最大の長所と考える「拘りのなさ」を垣間見た時だった。たまたま私が出向いた時、彼は社員を前に自分のアイデアを熱っぽく語っていたが、それは、一言で言えば、良いアイデアではなかった。私が、たまりかねて、彼が見落としていたポイントを指摘すると、彼はしばらく考えていたが、すぐに「そうですね。そうかもしれませんね」と言った。そして、その場で、それまで熱をこめて語っていたアイデアをあっさりと捨て、全く違う角度からの議論を始めた。

 

人は誰でも勘違いをする。しかし、自分の誤りにある程度気付いても、大抵の人は自分のこれまでの考えを捨てきれず、或いは面子に拘る。この為に、転進のタイミングが一歩遅れる。しかし、孫さんは一瞬の躊躇もしない。勘のいい人であることは間違いないが、それ以上に、事実関係の把握を重視し、理屈に合わないことはやらない人だ。

 

「幾多の困難を乗り越えて彼がここまでやってこられたのは、恐らくこれ故だろう」と、私はその時に感じた。「この長点がある限りは、これからも大きく転ぶことはないのではないか」とも思った。(これは後々になって分かった事だが、孫さんにすれば、根幹の「理念」や「ビジョン」に揺るぎがなければ、戦術的な細部は如何様にも変わってよいということなのだろう。)

 

そのうちに、孫さんから「重要な話がある」と言われて呼び出されたので、出向いて話を聞くと、「1.7GHzの携帯通信事業のライセンスが取れるが、この分野に経験のある人が見つからないので、あなたがCEOとしてやってみてくれないか」という話だった。「この事業の為には、この程度の金は用意する」という話もあった。

 

私は、実はその直前に、当時のボーダフォンの英国本社の社長からも、「日本法人の社長をやってみないか」と誘われ、「自分は既に歳をとりすぎているし、とても自信がない」と断ったばかりだったから、この話もその場ですぐにお断りしようかと思ったが、それではあまりに誠意がないので、「一週間だけ考えさせてください」と答えた。

 

私が一週間貰ったのは、口先だけのことではなかった。投資額を含め、「もしこの条件が整えば」という答えぐらいは出さなければと思い、現実に色々な面をチェックした。しかし、幾ら考えても勝算はなかった。「既存事業者に地方でのローミングを義務付けることが出来れば何とかなるのではないか」とも考えたが、当時ソフトバンクは郵政省を相手取って訴訟までしていたから、「旧知の郵政省の高官に色々なことを打診して反応を見る」という事さえままならない状況だった。

 

結局、私は孫さんに会い、「私には全く自信がありません。しかし、孫さんもやられるべきではありません。このまま強行するのは自殺行為に等しい。孫さんは何時の日かNTTを超えるという目標を持っておられると聞きましたが、一度死んでしまえば、もう二度と戦えません」と伝えた。孫さんは目を大きく見開いて真剣に聞いてくれたが、最終的に、「あなたの言うことはよく分かったが、やはり、どうしてもやりたいなァ」と言った。

 

「これをやらないのなら、どんな代替案があるのか?」と尋ねられたので、私はこう答えた。「いきなり自分で一から始めるのではなく、ボーダフォンのMVNOをやることから始められたらどうですか? ボーダフォンは今のままでは立ち行かないが、ソフトバンクの販売力を利用すれば何とかなる。そのうちに彼等はソフトバンクを頼りにするようになります。そうなると、合弁に持っていけるかもしれないし、買収できる可能性もあります。仮にそうならなかったとしても、その頃には既に販売実績が十分出来ているのですから、この時にあらためて免許を取って、自分で全てをやることにしても遅くはない筈です。」

 

私は、その頃、実はボーダフォンの本社に対しても、「ソフトバンクをMVNOにすべき」という提言をしていた。来日した本社の社長と面接した際に「今度のクリスマス商戦にこれだけの端末を用意した。日本法人の社長は『これは必ず売れる』と言っているが、お前はどう思うか?」と聞かれたので、「申し訳ないが、私は全く売れないと思う」と答えた。

 

びっくりして理由を聞く相手に、私は、率直に、「見たところ日本のユーザーが全く魅力を感じない商品ばかりだ。『徹底的に日本のユーザーの気持になりきる』という姿勢がなければ日本では勝てない」と伝えた。そして「その解決策は?」と畳み込まれたのに対し、「本社の顔色ばかりを見ている日本人に頼っても駄目だ。中途半端なことはやめて、日本生え抜きのマーケティングのプロ集団に委ねた方がよい」と言って、ソフトバンクとのMVNO契約を奨めたのだった。

 

断れなかった再度の誘い (2006年)

 

それから約一年が経ち、私はまた孫さんから呼ばれた。「あなたのアドバイス通り、二兆円の大枚を払ってボーダフォンを買った。私は命を賭けてこの仕事をやり遂げる。この仕事は、『日本の為に』自分がやらねばならぬことだ。やるからには必ず成功させて、日本を変えて見せる。あなたも日本人なら、アメリカの会社の仕事などをしていないで、日本の将来の為に私のこの仕事を手伝うべきだ」と彼は言う。私は「二兆円もの借金をしてボーダフォンを買うべきだ」等とは言った覚えはなかったが、心の中では、「ここまで言われれば、とても断れない」と覚悟を決めた。

 

その決断に至るまでには、勿論、心の中に葛藤が全くなかったわけではない。既に「これからはアメリカに本拠を移す」と言っていたのに、日本に舞い戻るような形になるのは、何となくバツが悪い。多少煙たがられていたとは思うが、昨日までの盟友であったKDDIの敵に回るのも、少し心苦しくはある。収入面から言うなら、この時点でクアルコムを離れることは、相当額に及ぶ筈の将来のオプション株の権利をドブに捨てることを意味するのだから、普通ならあり得ない選択だった。

 

しかし、私にそれを乗り越えさせたのが、私の心の中にずっと蟠っていた「人生の最後は、矢張り出来れば日本の将来の為になる事をやりたい」「NTTのような『組織防衛優先』の保守的な巨大企業が日本の情報通信産業の中枢にいつまでも居座っているのは、日本の将来の為に良くない」という気持だった。

 

その頃のKDDIはドコモに対して一矢を報いつつあり、自分もそれには若干の貢献はしたという気持はあったが、この程度ではどうにもならない。しかも、そのKDDIも、私の目から見るとやはり大企業的な気風に染まっているように見えた。これに対して、「孫さんのような人なら、或いは本当にNTTの牙城を突き崩し、日本の情報通信業界を全く新しいものにしてくれるかもしれない」という秘かな期待が、私の心の中に芽生えつつあったのも事実だった。そうなると、もうお金のことは問題ではなかった。

 

私は商社マンだったから、それまでに多くのビジネスマンや経営者を見てきたし、伊藤忠を辞めた頃には、「久慈毅」というペンネームで、「人」の要素を重視する読み物仕立てのビジネス書を何冊か書いた程だった。だから、人を見る目はあるつもりだった。その目から見ても、孫さんが類稀な人であることは間違いなかった。絶え間なく考え、即座に実行するエネルギーは、常人の域をはるかに超えていたし、何よりも構想が桁外れて大きかった。

 

こういう人に、「自分は何としても日本を変えたい。だからあなたも手伝え」と言われて、これを断って日本を離れてしまったとすれば、後々までそれを悔やむことになるかもしれないと私は思った。

 

当初の話では、私の仕事は「技術部門の統括」という事だったから、いくら孫さんから「あなたはちょっと手伝うだけでよい」と言われていても、相当の覚悟をせざるを得ないと思っていた。ナンバーポータビリティー(電話番号を変えることなく、通信事業者を乗り換えることが出来る制度)の実施が秒読みとなっていたその時点では、下手をすればソフトバンクはドコモとKDDIの二社の草刈場になり、市場シェアを伸ばすどころか、十五%強しかなかった既存シェアまで奪われて、破綻の危機に瀕する可能性だってないとは言えなかった。

 

私の見るところでは、後発で規模のメリットが取れない上に、第三世代システム用に使える周波数としては、使いにくい2GHz帯しか持っていないソフトバンクは、ドコモやKDDIに対して大きなハンディキャップを負っていた。買っている端末も、KDDIに比べれば押しなべてコストが高かったし、今後のデータサービスの展開についても、「技術戦略」というものが見当たらず、「職人技」によって対処するしかない体制のように見えた。

 

その頃の日本のビジネスモデルは、毎日既存顧客から入ってくる日銭を使って、高価な端末を只同然の値段で顧客に売る「サブシディー(販売奨励金)モデル」だったから、既存顧客の数が少なく、これからシェアを伸ばさなければならない後発事業者にとっては明らかに不利だった。ソフトバンクがマーケティングに長けていることは知っていたが、「技術部門で徹底的にコストを切り詰めて、端末価格の設定に或る程度の自由度を与えなければ、いくら強力な販売部門があったとしても、手の打ち様がなく、会社自体が立ち行かなくなるかもしれない」と、私は心の底から危惧していた。

 

そこで、私は、「この仕事を引き受けるからには、自分は誰に何と言われようと、技術部門の立場から『コストダウンの鬼』になる。それ以外には、この会社が生き残る道はない。もうこれが人生で最後の仕事だから、人に憎まれても、返り血を浴びることになっても構わない」と、悲壮な覚悟を決めた。健康診断を受けると血糖値が高いと指摘されたので、「完全に禁酒して、自分で自分に厳しい食事制限も課する」事も決めた。病気で倒れたら何も出来なくなり、恥を満天下にさらすことを恐れたからだった。

*REVOLVER dino network 投稿 | 編集