不完全燃焼の時間 (2007 - 2011年)

My Story

不完全燃焼の時間 (2007 - 2011年)

 

結局私は、入社翌年から取締役副社長を退任する2011年の6月までを、かなり漫然と過ごした事になる。しかし、結論から言えば、それでも結果的には大きな問題は起こらなかったので、「後で自分の無能と怠惰を激しく悔やむ」というような憂き目にはあわずに済んだ。

 

ソフトバンクに入社した時に私が心配した事は三つあった。

 

第一は、ネットワークの脆弱性、つまりソフトバンクの本来の狙いであったデータ通信の利用が大きくなった時にネットワークがこの負荷に耐えきれずパンクしてしまう事だった。これに対しては、私は極めて早い時点からWiFiでトラフィックをオフロードする事を提唱してきていたが、当時は世界の通信事業者でそんな事を考えているところはどこもなく、ソフトバンクの社内でさえ、理解を得られるにはかなりの時間を要した。しかし、やり出せば動きは速く、且つ徹底的にやるのがソフトバンクの強いところで、結果としてソフトバンクは現時点で世界随一の充実したWiFiシステムを運営していると思う。

 

第二は、大都市部でのネットワークのカバレッジの問題であり、特にビル内の対応が難しい問題だった。ソフトバンクはドコモやKDDIと異なり、大きなセルを構成出来る上に建物の内部への浸透性にも優れた800MHz帯の免許を持っていなかったので、本来なら却って開き直れる、即ち、外からビル内をカバーする事を最初から諦め、異なった方法を追求するべきである事は分かっていたが、ビルのオーナーは様々であり、これと言った決め手は最後まで掴めなかった。この問題は、今なお世界中の携帯通信事業者が抱えている深刻な問題だ。

 

そして第三は、端末の問題であり、これが当時としては最も大きな心配事であった。

 

日本は携帯端末に様々なデータアプリを搭載する事については、世界で最も進んではいたが、一つ一つのモデル毎に一つ一つ組み込みソフトを開発するやり方に固執していたので、ソフト開発費が恐ろしく高いものにつき、それが日本の携帯端末機が世界市場では全く売れない原因にもなっていた。この解決策は明らかで、携帯端末用のOS、又はOSに準じるものを作り、これを全ての携帯端末に搭載した上で、様々なアプリケーションのソフトウェアを誰にでも自由に作ってもらう事にすればよい。時あたかもLinuxが市民権を得つつあったので、先ずはLinuxのカーネル上に出来るものから少しずつ搭載していくしかないのではないかと考えていた。

 

しかし、そんな事は言うは易くとも行うは難い。それに膨大な開発費と時間がかかる。既に、潤沢に開発費を使えるドコモはこの方向に進んでいたし、逸早く各メーカーの端末の共通化を進めていた上に、クアルコムのBREWでBinary Runtime環境を広くソフトベンダーに提供する経験を積んできているKDDIにも、先を越される恐れが大きかった。「一体どうすれば、他社に後れをとる事なく、多くの機能を備えた高度な端末を安価且つ迅速に開発出来る環境が整えられるのか?」これを考え出すと、入社当時は眠れない夜が続き、時には絶望的な気持ちになる事さえもあった。

 

しかし、この劣勢は、アップルによるiPhoneの開発と、これに全てを賭けたソフトバンクの大胆な経営戦略のおかげで、結果的には完全にひっくり返す事が出来た。つまり、この関係で世界のトップを走っていたかに見えたドコモが、Limoと名付けられた新しい携帯端末用のOSの開発にもたついている間に、アップルは自社開発のiOSを搭載した画期的なiPhone端末を発表、世界の大勢を一夜にして激変させたのだ。

 

更に続いて、グーグルがAndroidと名付けられたOSを全世界の全ての端末メーカーに無償で提供する事を発表したので、世界の全ての端末メーカーは一斉にこれを利用する方向へと動いた。こうして、私自身を含め、日本の業界が色々に思い悩んでいた携帯端末のアーキテクチャー問題は、一気に異次元に進んだ。世界のプレイヤーのダイナミズムの前に、大胆な発想の転換が出来ず、或いはそのスピードが遅すぎた日本のプレイヤーの限界が、計らずも露呈されたのだった。

 

iPhoneについては、私自身は極めて複雑な感情を持った事を告白しなければならない。始めてこれを使った瞬間には、私は「ああ、ここまで作り込んでくれる会社が遂に出てきたのか」と驚嘆し、殆ど感極まった。しかし、この思いは、やがてじわじわと、言いようのない敗北感へと変わっていった。

 

思えば、その20年前、私はニューヨークでオフィス用の電話システムの為に色々な機能を考え、ここで惨めな失敗を犯した後も、何時の日かは日本メーカーと組んで、携帯端末でその雪辱戦を果たしたいと秘かに考えていた。しかし、何も出来ないでいるうちに、アップルはこの様な一桁も二桁も上の商品を作り出してしまったのだ。彼我の能力のあまりの違いに、私は言うべき言葉もなかった。

 

経営者としての能力についてもそうだった。私は若い頃から、いつも上を見て、「自分が経営者ならこうする」と考えながら仕事をするのが習い性となっていたし、後から考えて「自分ならもっとうまく出来た」と思う事も多かった。孫さんのやり方についても、勿論、自分自身の醒めた眼で批判的に見る事もあった。しかし、「ここぞという時の勝負の賭け方については、自分はこの人には遠く及ばない」という事を、この時に骨の髄まで思い知らされた。iPhoneという画期的な商品が出てきた時に、孫さんは一瞬にしてその可能性を看破し、迷う事なく、会社の全ての経営資源を一気にこれに賭けた。私では、あそこまで徹底した決断はとても出来なかっただろう。

*REVOLVER dino network 投稿 | 編集