懲りもせず、晩年にまた手痛い挫折 (2011年—2013年)
6月末でソフトバンクモバイルの副社長を辞める事を決めていた2011年の3月に東日本大震災が起こり、福島で深刻な原発事故が起った。これがなければ、私の晩年はもう少し違ったものになっていたかもしれないが、この為に私の心境には大きな変化が生じた。一言で言えば、副社長退任の9ヶ月後の2012年の3月には、「仕事を始めて丁度50年になるからもういいだろう」という理由で実業の世界から完全に引退する計画だったのを急遽取り止めて、更に5年間、身体が続く限りは働く決心をしたという事だ。
東日本大震災だけなら日本は十分立ち直れると私は考えていたが、原発事故については「その影響は計り知れぬものがある」と思わざるを得なかった。それを考える時に私の頭に去来したものは、「戦慄」という言葉が当てはまる程のものだった。この事故の「原因」とその「影響」を考えると、「日本はこれまでの原発依存によるエネルギー政策を根本から変えなければならなくなるだろう」と私は素早く予測した。もともと国債の過大な発行残高に危惧を持っていた私は、「エネルギー政策の破綻」がもたらすかもしれない「財政破綻」の可能性に恐怖した。
ここで大人達がしっかりしなかったら、孫達の世代にとても申し開きは出来ない。しかし、何をどうすればよいのかは全く分からない。私自身は「原発」には反対ではない。放射能が生命体に与える影響に恐怖を感じる事については私も人後に落ちないが、それは遺伝子操作がもたらすかも知れない破局と五十歩百歩のものだ。そして、人間は既に核技術や遺伝子工学を弄び始めてしまっており、もはや後には戻れない。「科学技術に取り組んだからには、決して逃げてはならない。逃げれば、誰かが過ちを犯すのを防げなくなってしまう。恐怖に打ち勝ち、あくまで真正面から立ち向かって問題を克服するしかない」というのが、私の基本的な考えだ。だから、「反原発」の動きが過激になって、日本から原子力関連の技術者がいなくなってしまう事を、実は私は何よりも恐れていた。
しかし、その一方で、孫さんの「原発」に対する恐怖心は本物のようであり、この為に、彼はかなり過激な「反原発」の姿勢を取った。どんな時でも抽象的な議論に終わらず、必ず具体的な代案を出し、これを直ぐに実行に移すというのが彼の真骨頂だ。だから、この時も彼は直ちに「自然エネルギー導入」の旗印を掲げて、大胆なメガソーラー計画等をぶち上げた。この頃は、私は既に副社長は辞めていたが、取締役会の一員としては残っていたので、かなり辛い立場に置かれた。社長の方針はサポートしなければならないが、親交のある大企業の幹部などからは、ソーラー発電の高コストを指摘されて、「日本の経済を破壊しようというのか」となじられる。
そんな時に、私はある人の紹介で東北大学の大見忠弘名誉教授とお会いする事になった。「太陽光発電に情熱をかけている孫さんは立派だが、今のコストではどうにもならない。2年間待ってくれたら、私がコストを3分の1に下げてみせる」と言っておられた由で、孫さんに会いたいとの事だったが、孫さんは多忙でとても会えないし、そのまま握り潰す訳にも行かないので、私が代わりに仙台まで出向く事にしたのだ。
大見先生にお会いしてみると、73歳の高齢にも関わらず情熱の固まりの様な方で、「現在の半導体製造技術が向かっている方向には科学の原理原則に反するものが多く、本質的に誤っている」と激しい事を言われる。半導体製造に不可欠なクリーンルーム開発の父と言われる「実績」に加えて、数えきれない程の「受賞歴」も持っておられる上に、過去10年間で文科省と経産省が何と総額400億円もの金額を先生の研究に注ぎ込んでいた事が分かった。こうなると、私も先生の言われる事を真剣に受け取らざるを得ない。しかも、この膨大な資金を使って、先生は民間企業が羨む様な高価な試験機等を自らの研究室に備えておられたのだから、これが役に立たないわけはないと私は思った。
半導体技術の本質的な問題はよく分からなかったが、シャープ等が手掛けていた「薄膜方式の太陽光発電システム」の光電子転換効率を三3倍にして、生産性も上げるという大見先生の構想については、具体的な機器の設計も生産コストの計算も既に出来ていた。六億円程度の研究資金さえあれば、パネル製造を手掛けるメーカーが納得する様なサンプルを半年程度で作り上げてみせるとの事だったので、私も眼を輝かさざるを得なかった。太陽光発電システムの中でパネル自身のコストが占めるのは約半分程度だが、周辺システムのコストダウンには色々なアイデアが出てくる可能性は十分あったから、本当にこれが実現すれば、日照量の多い米国や中近東では、石油や天然ガスによる発電よりも安いコストでの太陽光発電が可能になる事を意味した。
私は元々「ドイツや北欧諸国のように環境意識の高い国が、国民の税金で自然エネルギーへと転換するのは、自己満足以外には殆ど何の意味もない」という考えだった。一部の先進国がCO2の排出を抑制したところで、中国やインド、ブラジルや東南アジア諸国といった「人口が多く、且つ国民の生活水準の急速な向上が予測されている地域」での自然エネルギーへの転換が進まなければ、地球規模で考えれば、実際には何の役にも立たないからだ。しかし、こういう地域では、太陽光等による発電コストが化石燃料によるものより安くならない限り、そんな事は簡単には起こらない。だから、自然エネルギー問題は「技術革新によるコストダウンの可能性」が問題の全てであると私は考えていた。
大見先生によれば、シャープ等による薄膜方式のエネルギー転換効率が低いレベルに留まっているのは、アモルファスや微結晶状態にあるシリコン化合物の中から水素原子が離脱し過ぎているからであり、プラズマ励起領域と反応領域を切り離して、全てのプロセスを低温で安定した状態に保てば、この問題は解決出来るとのことであり、「金属表面波という微弱な電波を使って広範囲に均一にプラズマを励起することを可能にした新しい設備」の能力に大きな期待がかかっていた。しかし、6億円程度の金が直ぐに手当出来なければ、この為の試験設備は導入出来ず、それどころか、研究所自体の運営が明日にでも行き詰まりかねないという状況だという事だった。
時あたかも民主党政権による「事業仕分け」が脚光を浴びている時代で、スパコンの開発資金も槍玉に上がっている状況だったので、国からの資金拠出はもう期待出来ない。「この様な構想が資金難の為に行き詰まっている」という事実を知る前ならよかったのだが、一旦知ってしまった以上は知らないふりをする訳にも行かない。そこで私は一大決心をする。「最早原発には依存出来ない」そして「自然エネルギー問題の抱える本質的なジレンマは技術開発(特に半導体技術)でしか解決出来ない」と考える限りは、「この構想の存在から眼を背ける事は、自分自身の存在意義を自ら否定するに等しい」と思い詰めるに至っていた。
そこで、私は孫さんと掛け合い、ソフトバンクだけではとても賄いきれないので、昔から親しかった古巣のクアルコムのCEOであるPaul Jacobs博士にまで頼み込んだ。このような「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言ってもよい様な開発案件に人様を巻き込むのに、自分ではリスクをとらないというのは筋違い故、個人的にも身の程以上の拠出(出資)を覚悟した上、「生涯無償でこの事業の推進を引き受ける」という決意まで吐露した。
これには勿論別の背景もあった。大震災に際して、孫さんは自ら個人的に100億円を寄付して世の中を驚かせた。だから、私の個人資産は孫さんの1万分の1にも満たないにしても、私自身も「何かはやらなければならない」とは思っていた。そこで、「お金ではなく、リスクの負担と自分の時間を使う事で、自分としてもささやかながら貢献しよう」と決心した訳だ。「これで東北大学の名前を世界に轟かす事が出来れば、東北復興の一助にもなろう」という考えも、勿論その根底にはあった。
当然の事ながら、ソフトバンクの役員は全員反対だった。「そもそもソフトバンクは、その成り立ちからして、基礎技術に投資する会社ではない。松本さんは役員でありながらそんな事も分からないのですか?」という訳だ。私にすれば「グループの総帥である孫社長の反原発運動が経済界で不評なので、これに対して一矢を報いたいという意味もあるのですよ」と反論したいところだったが、そうも言えない。
結局は、自分でも恥ずかしい位の「ゴリ押し」で、不承々々認めて貰うしかなかった。クアルコムの方は「今後は半導体製造技術の方まで踏み込んでいくべきでしょうから、日本で最先端の研究拠点と繋がりを作っておいてもよいのでは」という大雑把な話だけで、何とか認めてもらった。それぞれ2億5000万円の出資だ。かくして「スーパー・シリコン・テクノロジー」という名前の新会社が、私が社長を引き受ける事によって、難産の上に設立された。
しかし、世の中はそう甘くはなかった。試験機を導入して悪戦苦闘する事半年あまりで、多くの推測に誤りがあった事が分かった。半年である程度のサンプルが作成出来れば、当時はまだ蜜月関係にあった台湾の鴻海グループの会長が個人的に出資していたシャープの堺工場にこれを持ち込んで、プロジェクトを次の段階に進める予定だったのだが、とてもその状態には程遠かった。「多くの問題を抜本的に見直した上で、更に一年から二年かけてやっとある程度のものが出来る」という状態では、資金はとても続かない。そもそもソフトバンクやクアルコムにはこれ以上は一切負担をかけないというのが当初からの約束だった。
私とて、長年実業の世界にいたので、いくら「生涯をかけての国の為の仕事」と意気込んでいたからといっても、物事が期待通りに行かない場合のフォールバックプランを持っていなかった訳ではない。この場合には、この研究所が所有する300件を越える半導体製造関連の特許を切り売りして、2年間位は糊口を凌げるという計算はあった。(尤も、その為には、既に自民党政権が国立大学に対して拠出する事を決めていた産学連携の開発資金を獲得する必要があり、この為には一定の形式要件を整える必要があったのも事実だったのだが。)
しかし、ここで、考えてもみなかった更なる悲劇に私は見舞われる。この仕事を始めるにあたり、特に特許を切り売りして糊口をしのぐ事を想定した場合に、私が最も頼りにしていた田中信義さんが、68歳の若さで膵臓癌で急逝されたのだ。元々東北大学で半導体の研究をしておられた田中信義さんは、キャノンで専務まで勤められた後、退職して特任教授として東北大学に戻られていたが、政府の知的財産戦略推進本部の委員を務められる等、知的財産の分野では日本の最高峰におられた方だった。だから、私から特にお願いして、新会社の副社長になって頂き、特許戦略をお委せしていたのだが、この方を失ってしまっては、私だけで特許ビジネスをやっていく事は難しいと考えざるを得なかった。
一方、ソフトバンクの財務担当者に状況を説明すると、「ソフトバンクとしては、あくまで太陽光発電技術に対して投資したのであって、会社が幅広く半導体技術を対象とする事は想定していない。それよりも、太陽光発電関係で当初の目論が実現出来る可能性が当面見出せないのなら、会社はすぐに全ての活動を停止し、残存財産を株主に払い戻すべきだ」との回答。こう言われれば反論は出来ない。クアルコムはソフトバンクの意向に従うという立場だったし、大学の方からも今後の支援体制については一向にハキハキとしたコミットメントが得られなかったので、こうなると私には最早どうする事も出来ず、涙を呑んで会社の解散を決定するしかなかった。
この間、私は眠れない夜を幾晩も過ごした。若い時に起こしたベンチャービジネスが破綻しつつあった時に見た悪夢の再来だった。結局、全ての成否は「技術的なアイデアの実現可能性」の如何にかかっていた訳だったから、その判断が甘かったと言われれば一言もない。「だから、言ったでしょう。松本さんもいい歳をして、相変わらず甘いんですねえ」と言われれば、只々恥じ入るばかりだ。
しかし、これも私の人生の一こまだったに過ぎない。結局は、「これからは生涯を通して無償で国の為に働く」という誓いが、脆くも挫折したという事だ。自分の不明からソフトバンクやクアルコムに損失を被らした事に対する恥ずかしさと負い目を除けば、私にとっては「只それだけの事」だった。